動くことで見え始めたもの。
- 1月19日
- 読了時間: 3分
更新日:1月29日
📍いつもブログを読んでくれてありがとうございます。
1月に入ってから意識的に外へ出るようにしています。
展覧会を観る機会を増やし、その体験をこのブログでもレポートとして書いていますが、あらためて考えると、これは単なる鑑賞記録ではなく、自分の制作姿勢を調整するための行為でもあるようです。
これらの文章を読んでいる人が、どのように受け取っているのかは分かりません。
けれど少なくとも、自分にとっては「見ること」と「書くこと」を再接続するための試みになっています。

主観にとどまらないレポートを目指して
展覧会レポートは、どうしても個人的な感想に寄りやすい。
それ自体は悪いことではないですが、私は今、作品の印象だけでなく、企画の構造や配置、比較の視点を含めて捉えたいと考えています。
美術という領域を、美術の内部だけで完結させるのではなく、他分野の知識や、自分自身の経験と結びつけながら言葉にすること。
その積み重ねによって、レポートの精度も、思考の解像度も少しずつ上げていけたらと思っています。
「動かない視点」に慣れていたこと
最近になって、これまでの自分の姿勢について、ひとつ思い当たることがありました。
私は長いあいだ、「自分は動かず、そこから見えるものを描く」ことに慣れていたのではないか、ということです。
内側に沈み込み、考え、構築する。
その態度は確かに必要でしたが、同時に、視界を固定していた部分もあったのかもしれません。
見たいものを見に行く、という行為
今は、展覧会を観に行き、映画を観に行き、自分の身体を移動させて「見たいものを見に行く」ことをしています。
動くこと、自分を動かすこと。
その行為自体が、ものの見え方を変えている感覚があります。
自分の部屋から見える、限定された世界と、足を運んだ先で立ち上がる景色。
その違いは確かに存在します。
ただしそれは、「見たいもの以外を排除する」ということでありません。
むしろ、移動の途中で、意図していなかった風景や、人の営み、街の気配に気づくことが増えました。
移動の途中で立ち現れるもの
どこかへ向かう過程で目に入る景色は、制作のために用意されたものではありません。
けれど、そうした偶然の視覚や感触こそが、部屋に籠もっていては得られない刺激になります。
動くことで、外の世界と内側の思考が、どこかで循環し始める。
最近は、その循環を、かすかにだが実感しています。
静けさもまた必要であること
一方で、動くことだけでは足りないとも感じています。
制作には、自分を落ち着かせ、内側にあるものを静かに浮かび上がらせる時間も必要だからです。
まだ言葉にならない潜在的な感覚を、そのままにしておくための静けさ。
「動」と「静」のどちらかではなく、その往復の中で、今の自分の制作は進んでいます。
見たものを、言葉として手渡す
展覧会で見たもの、移動の中で出会った風景を文章にすること。
それは記録であると同時に、自分の視点を外に開く行為です。
このテキストを通して、読む人が何かを見るときの感覚を、少しだけ更新できたら。
今はそんな距離感で、書くことと制作を並走しています。
BASEでは2026年カレンダーを始め、ポストカードやドローイング作品を取り扱っています。是非一度ご覧になってみてくださいね。
1月16日更新🆙📝【note:もうひとつのブログ】
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