絵は人間と同じように、わたしを見つけた。ブータン展で出会った「気韻生動」
- 5月10日
- 読了時間: 4分
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数日前に出かけた「ウージェーㇴ・ブータン展」で、わたしは絵を見ていて初めての感覚に陥りました。
いつもとは違う会場の回り方を試したこと。
想像以上にブータンの筆致と相性の良さを感じたこと。
見ていて疲れなかったこと。
それくらいが、特別なことでした。
こうして鑑賞レポートを書くという前提で美術展を訪れるようになってから、会場を3回ほど回るといいのではないかと考えるようになりました。
1回目は全体の流れをつかむように。
2回目にハイライトだと思ったフロアへ歩を進め、注意深くキャプションを読んでいたとき、《ノルマンディーの海岸》1862-1865年の前に立ち止まりました。
絵そのものよりも、その隣のキャプションから別のものが見えてきた気がして。こんな言葉が目に入りました。
"ブータンは絵筆をとるときは、自身の苦悩を避け、光と美のみを画面にもたらすべきとした。" "荒天を描くときも希望を象徴する青を省かなかった。"
この一文は、なぜかそのときのわたしの状況に寄り添いました。
その日わたしは、閉館2時間前に到着しました。バタバタと家を出て、その週は心がざわつく心配事を抱えていました。休日になっても、それは頭の隅に残り続けていました。
ここのところ、美術館に行くまでの身辺が慌ただしく、いつも万全とはいかなくなりました。4・5月特有の季節の変わり目、環境の変化、人間関係のバランスが大きく動く季節。
ナーバスになる日も、晴れた空が清々しい日も、作品を見るために出かけます。
会場に入り薄暗いフロアに身を沈めると、心配事もタスクも、どうしても剥がせなかった数々の付箋が、ひらひらと落ちていくのを感じます。
「ああ、来てよかった」
毎回、この一言を美術展にかけています。
そんな心持ちで見たブータン展の第Ⅱ章——「空、瞬間の美学、光の探求」のフロアで、わたしは絵を見ていたのではありませんでした。
絵ではなく、人を見ました。
絵がひとりの人間のように、わたしを見つけたのでした。
先のキャプションの言葉から見えてきたのは、絵を描く人が自分に課した絶対的なルール——自らの苦悩を画面に持ち込まず、光と美だけを入れること。
これはわたしが人と接するときにも、同じことが言えるのではないかと思いました。
日本にはこんな言葉があります。「気韻生動」。
芸術作品に描き手の気高い精神(気韻)が反映され、まるで生きているかのような生命感が溢れていることを指します。
描き手自身のエネルギーや精神の充実が、そのまま絵の生命力を決定するという考え方です。
ブータンもまさに、描き手自身の内側を徹底的に精査し、画面に入れるものと入れないものを選び取っていた。だからこそわたしは、絵を見ながら一人の人間と向き合うようなやり取りを感じたのだと思います。
目と目が合うような、正面から見られるような、見つけられたような——気恥しさと精神性を、同時に。
わたし自身はというと、絵とは画家が描きたいものを描くのではなく、絵を見る人が見ている世界や感情を反映するものだと考えるようになりました。
面白いと思うもの、美しいと思うもの、自分が必要とされているという欲求——そういった人間のあらゆる内側が、絵を見るときの眼差しをつくっている。
だからこそわたしは、醜い感情も、腐りかけた感情も、負の側面も含めて画面に入れたいと思っています。絵を見る人は自分をそこに投影します。
そのひとつひとつが色になり、形になり、光になり、影になる。喜びも美しさも、伝承も歴史も、すべてが混ざり合って作品を構成すると考えています。
しかし人間が絵を見るとき、そこに見るのは描かれたものだけではありません。
「この人となら楽しそう」「近寄りたくない」——人に対して抱くような感情と同じように、絵もまた見る人にコミットしてくる。
気韻生動を神髄とするのか。
それに抗い、土着的に泥臭く描くのか。
また分からなくなってしいました。
💬2026年展覧会レポート#30|開館50周年記念ウジェーヌ・ブーダン展―瞬間の美学、光の探求
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