作品は、誰のためのもの?:あるアーティストの内省と、キュレーションという応え
- 7月27日
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先日書いた記事(「アートはなぜ作って終わり」ではなくなったのか:時代が変えた作家の役割り)では「セルフプロデュース」と「キュレーション」。
この二つは、どちらを優先すれば、持続的な活動に繋がるのでしょうか?
結論から言うと、持続的な活動のためには、まず「キュレーション」を優先し、その核を土台として「セルフプロデュース」を行うのが理想的です。
なぜ「キュレーション」が活動の核となるのか
キュレーションは、作品の持つ本質的な価値を深く探求し、その意味を明確にする活動です。これは、外側の評価に左右されない、アーティストとしての揺るぎない軸を築くことにつながります。
なぜ私が描き続けるのか。
その素直な心境は、技術の向上によって表現の深みと深遠さが増し、作品が訴える世界が広がる喜びがあるからです。また、人からは見えない努力や感情を、一人こっそりと物語やドローイングに落とし込む時間を失いたくないから絵を描いている、という思いもあります。
キュレーションは、この内面にある「描き続ける理由」と向き合うこと。過去の作品との対話を通して、ネガティブな感情や自己否定したい記憶を、単なる否定で終わらせず、次へと進む前向きなメッセージへと昇華させる経験。それは、外側の評価に流されない、作家としての核を固めるための大切な時間なのです。
「セルフプロデュース」は、核を社会へ届けるための手段
一方、セルフプロデュースは、キュレーションによって確立された「活動の核」を、社会に届け、広めていくための手段です。これは、作品を「内」から「外」へと開く行為です。
セルフプロデュースは、キュレーションという「内なる充実」があってこそ、その真価を発揮します。芯の通った作品や哲学があるからこそ、SNSでの言葉や展示の企画にも説得力が生まれ、多くの人々の心に響くのだと思います。
本質的な問い:「作品は、誰のためのものか?」
キュレーションとセルフプロデュースのバランスを考える上で、私たちアーティストはもう一つの本質的な問いと向き合う必要があります。それは、「作品は、誰のためのものか?」という問いです。
この問いには、大きく分けて二つの視点があります。
「自分のための作品」: 作家自身の内面的な探求の結果として生まれる作品です。個人的な私情にフォーカスしたものになります。
「他者のための作品」: 鑑賞者や社会との対話を目的として生まれる作品です。作品を通じて外部に影響を与えることを意図しています。
この二つの視点は、どちらが優れているということではありません。多くの場合、創作活動は「自分のため」から始まり、やがて「他者のため」へと広がっていきます。キュレーションは、この「内」から「外」への移行を支える重要なプロセスです。
作品を露出するというのは、まさにこの二つの視点が交差する場所です。
自分の半径内で留まる個人的な私情にフォーカスした作品を、他者と共有し、示すことによって、ひとりひとりが自分の人生や性(生)を受容し揺らぎながらも、生たいと願うのではないかと思います。
キュレーションによって、作家が作品に込めた内なるメッセージを明確にし、それをセルフプロデュースという手段で鑑賞者に届ける。このプロセスを通じて、作品は単なる個人的な表現を超え、鑑賞者自身の問いとなり、新しい意味を獲得するのではないでしょうか。



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