俯瞰から降りた先ー春の気配と、止まらない現実
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更新日:2 日前
📍いつもブログを読んでくださりありがとうございます。
今日から3月。
暖かい陽射しと桃の花、桜の花、と春の花が咲いているのを見かけるようになりました。
今年もすったもんだはありますが、ここにいて変わらずに過ごせていることに自然と感謝の気持ちが湧いてきます。
💬2025年3月1日の記事|原因不明の頭痛に悩まされていた。

春の気配と、不穏なニュース
日本の春の到来がすぐそこまで迫り、気候も暖かくなりかけたこの頃、不穏なニュースが入りました。2月27日未明、パキスタンによるアフガニスタンへの空爆が開始されたこと。そして28日朝(現地時間)、イランに対してイスラエルとアメリカが空爆を行ったという報道です。
わたしはここのところ、パレスチナとイスラエルに関する読書を続けていました。
そのきっかけになったのは、『手に魂を込め、歩いて見れば』という一本の映画でした。
それから、わたしの日常や意識は微かに、ゆるやかに変化しました。読書は続けているものの、自分の言葉で語れるほどの理解や歴史的文脈は、あまりに入り組んでいます。把握するには、おそらくまだ時間がかかる。だからこそ、継続的な読書と関心の種火だけは絶やさずにいようと、小さく続けています。
本の中に描かれている世界は、地続きで、いま現実に起きています。
本は閉じることができます。けれど、現実は開かれたままです。
💬映画【手に魂を込め、歩いてみれば】鑑賞レポート
💬写真展【ファトマ・ハッスーナ写真展】観賞レポート
「やめて」と声に出した瞬間
今回の空爆、戦争状態に突入したというニュースを目にしたとき、思わず「やめて」と声に出していました。それは文字情報としての出来事ではありませんでした。
映画の中で出会ったファトマさんという生身の女性の人生と存在が、まるで身近にいる人のように感じられたからこその反応でした。そのニュースに、身体が収縮するような危機感と痛ましさを覚えました。
俯瞰する視点から降りるということ
わたしの描くパネルは、風景を上空から見た構図で描いています。
以前「俯瞰することの政治性」で書いた、「誰がどの高さから世界を見るのかという選択であり、すでにひとつの立場である」という自分の言葉が、大きな声となってわたしの中にこだまします。
俯瞰した場所から降りて、何を見るのか。
そのときに語られるのが「当事者意識」です。
しかし、もし当事者となったとき、わたしは平和を希求する代わりに差し出される条件や条約を飲めるでしょうか。平和を約束する代わりに土地を奪われるとしたら。平和と引き換えに、のめない条件を飲まされたなら、平和よりも憎しみや怒りを抱くのではないでしょうか。そしてその憎しみや怒りの矛先は、人間へと向けられるのではないでしょうか。
当事者意識とは、どちらかの側を選ぶことなのでしょうか。
もしそうなら、それは敵と味方という不毛な論理へと引きずり込まれ、繰り返される歴史の歯車を回すことになりはしないでしょうか。
「共事者」
そんなとき、「共事者」という言葉を知りました。
「共事者(きょうじしゃ)」とは、地域活動家の小松理虔氏らが提案する、当事者と非当事者の分断を乗り越え、課題や現場、場を「共」にする周囲の人々を指す言葉です。当事者性が「ある/ない」という二項対立ではなく、ゆるやかに関わりながら、共にその問題に関与し、支え合う「場」の参加者を意味する新しい概念です。
「共事者」という言葉を知ったから、自分の中で何かがすぐに解決するわけではありません。ただ、当事者か非当事者かという線引きの外側に、もう一つの関わり方があるのかもしれないと思えたことが、いまは小さな支えになっています。
俯瞰の高さから完全に降りることもできず、かといって遠くにいるふりもできない。
そのあいだで、何を選び、何を見つめるのかは作品制作の時間の中にあるでしょう。
日本では春が始まろうとしています。
けれど、確実に続いている生々しい現実と日本の現実が同じものとはおもえずに、
わたしは今日も、結論というものの考えからではなく、同時に起きる世界を手放さずにいたいのです。
BASEでは2026年カレンダーやポストカードやドローイング作品を取り扱っています。是非一度ご覧になってみてくださいね。
📣2月28日更新📝【note:もうひとつのブログ】
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