展覧会レポート#16|六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠
- 3月10日
- 読了時間: 7分
更新日:3月24日
📍いつもブログを読んでくださりありがとうございます。
森美術館で開催中の「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」を鑑賞してきました。
日本の現代アートの最前線を期待して足を運び、会場を出たとき、自分の中にひとつの問いが残っていました——立ち止まらせる作品とは、何なのか。
絵画から工芸、映像、コミュニティプロジェクトまで、表現形式は多岐にわたりました。
美しさとは何か、カタルシスはなぜ生まれるのか、そして素材と格闘することの意味という問いに行き着きました。
これは展覧会への批評であり、同時に制作者としての自分への問いかけでもあります。
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観に行きたいと思った理由
3年に一度開催される、日本の現代アートシーンを定点観測する展覧会シリーズの第8回目です。今回は森美術館のキュレーターに加え、国際的に活躍するアジアのゲストキュレーター2名を迎え、日本で活動する、あるいは日本にルーツを持ち海外で活動するアーティスト全21組を紹介しています。
まさに「今」の日本の現代美術の状況を多角的に見つめ直す展覧会として、自分の目で確かめたいと思い足を運びました。
展覧会について
この展覧会は森美術館が3年に一度開催する、日本の現代アートシーンの定点観測として2004年から続くシリーズ展です。第8回となる今回は「時間」をテーマに、日本で活動する、あるいは日本にルーツを持つアーティスト21組が集められました。絵画、彫刻、映像、工芸、刺繍、ZINE、コミュニティプロジェクトと、表現形式は多岐にわたります。
まずタイトルに詩的な響きがあります。
「時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」——これはインドネシアを代表する現代詩人、サパルディ・ジョコ・ダモノの詩の一節からの引用だといいます。詩の出典が明らかになると、問いは深まります。詩の一節を借りてきたとき、その詩が本来持っている緊張感と文脈が、そのまま展示に宿るかどうか。
キュレーターは「速度と効率が優先される社会のなかで、深く感じ、じっくり考える時間を取り戻したい」と語っています。詩の持つ固有の緊張感は展示の中に届いていたか——それが会場を歩いた実感でした。タイトルの浮遊感は、キュレーションの思想として、展示全体に漂っていました。
既視感の正体
会場を歩きながら感じたのは、既視感の入り混じった違和感でした。個々の作品への不満ではなく、展覧会という装置全体が生み出す構造的な問題としてです。
2010年代以降、国際的なビエンナーレを通じて現代アートの「正しい見た目」が形成されてきました。
絵画ならルーズなマチエールと身体性の強調。工芸や刺繍なら「手仕事の痕跡」を前景化し、フェミニズムや労働との接続を示す。映像ならスローなリズムと環境音。コミュニティプロジェクトならプロセスの可視化と関係性の作品化。
大型のインスタレーションによる没入型の作品もありました。それらは鑑賞者を物理的・感覚的に包み込むことで、日常の時間の流れをずらすことを意図しているようでした。時計の針を遅らせる、という意味での「時間の遅延」は、「時間」というテーマへのひとつの応答であります。
ただ、その体験が展示室の外まで持続するかどうかは別の問いとなります。没入の中にいる間は時間を忘れる。しかし出た後に何かが残るか。一瞬の感覚的な強度と、時間をかけて見続ける理由とは、必ずしも同じではありません。
これは自分自身の制作経験とも重なります。絵画にキャプションやバックストーリーを添えて読んでもらう、という試みをしたことがありました。作品だけでは届かないものを、言葉で補おうとする身振りです。今回の展示でも、作品に文字を書き込んだり、ストーリーを作品の一部に挿入したりする表現が見受けられました。
それは作品単体では成立しきれない何かを、言語によって支えようとする試みとも読めます。言葉が作品を開くのか、それとも作品の沈黙を埋めてしまうのか——その境界は、制作者にとっても鑑賞者にとっても、常に問われ続けます。
美しさと暴力性——宿るものとしての美
現代アートは長い間、「美しさ」を警戒してきました。美しさは市場に回収される、権力の装飾になる、鑑賞者を思考停止させる——そうした批判の中で、不快さ・醜さ・未完成さ・概念の優位が「正しい現代アート」の文法になってきました。しかしその結果、批評的な醜さ・制度的な未完成さそのものが様式化し、新たな「正しい見た目」になってしまいました。
美しさについて、ここでわたしの考えを提示します。
どれほど批評的な意図があろうと、暴力的・残忍な描写を含む作品であろうと、視覚芸術である以上、それはひとつひとつの色と形によって視覚化されます。文学と決定的に異なるのは、色・形・素材・物質を選択しなければならないという事実です。それは素材が本来持つ色と形の組み合わせの選択であり、そこに作家の介入なくして作品は組み立てられません。ならば作家の意図は必ず入る。
美しさとはそれを目指すものではなく、素材へと人の手を加える暴力の積み重ねの果てに、自然に宿る状態のことではないか。色を隣に置く、形を切り取る、マチエールを重ねる——それらはすべて素材の自然な状態への強制的な介入という暴力であり、その誠実な格闘の痕跡として、意図せず美しさが宿る。美しさを目指して作られた作品と、美しさが宿ってしまった作品は、見た目が似ていても本質的に別物です。
立ち止まらせる作品とは、色彩でも構図でも、サイズやバランスでも、あるいは雰囲気や空気という目に見えないものでも——わからなさと美しさが同時にある作品です。それは人に恐怖を与えることでも不安を煽ることでもなく、作品自体に美しさを排除しない作家の感性から生まれます。
待つことと強制終了——制作者の視点から
制作者として正直に言えば、この展示への批評は自分自身への問いと地続きです。
わたしは描くことそのものの中で何かが起きるのを待って制作しています。しかし大概の場合、その何かが起きるのを待ちきれず、強制終了してしまう。
これは単なる忍耐の問題ではありません。何かが起きるのを待つということは、自分がコントロールできない何かに委ねるということです。それは不安であり、作家として非常に不安定な状態に自分を置き続けることを要求されます。強制終了とはその不安に耐えられなくなって、自分の意図で作品を閉じてしまうこと。
カタルシスを感じる作品はなかなか作れません。
カタルシスとは制作の中で自分の内にある緊張や矛盾が、作品を通して外に出て形になったときの感覚です。強制終了するとき、その緊張と矛盾はまだ作品の中に閉じ込められたまま外に出ていません。だからカタルシスが来ない。
問題は、カタルシスを目標にすることもまた罠だということ。
それを求めて描き始めた瞬間、「美しさを目指す」と同じ構造に落ちるからです。目指した瞬間に待つことをやめ、別の形の強制終了を作ってしまう。結局、問いはひとつに収束する——どうすれば待ち続けられるか。
日本の現代アートをどう見るか——制度と感性の間で
六本木クロッシングは「日本の現代アートシーンの定点観測」を謳います。
工芸・手芸・刺繍といった「手仕事」の再評価。手仕事の痕跡はそれだけで「労働」「身体」「時間」への問いを帯び、素材との格闘を起こします。
制作者として、この展示から持ち帰るべきことがあるとすれば、それは批判ではなく一つの鏡でした。待ちきれずに強制終了してしまう自分と、外側からの要請によって閉じられた作品たちは、異なる理由で同じ問題を抱えている。
待つことの困難さ、不安に耐える力、素材が自分に何かを返してくるまで手を止めない粘り——それを問うことが、制作だと今は思っています。
【六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠】
会期:2025年12月3日(水) - 3月29日(日)
会場:森美術館
開館時間:10:00 - 22:00
入場料:2,000円
🪞備忘録|展示構成・出品作家
展示構成
「さまざまな時間のスケール」
「時間を感じる」
「ともにある時間」
「生命のリズム」
出展作家一覧(全21組)
A.A.Murakami、ケリー・アカシ、アメフラシ、荒木悠、ガーダー・アイダ・アイナーソン、ひがれお、廣直高、細井美裕、木原共、金仁淑、北澤潤、桑田卓郎、宮田明日鹿、Multiple Spirits、沖潤子、庄司朝美、シュシ・スライマン、和田礼治郎、マヤ・ワタナベ、キャリー・ヤマオカ、ズガ・コーサクとクリ・エイト
BASEでは2026年カレンダーやポストカードやドローイング作品を取り扱っています。是非一度ご覧になってみてくださいね。
🚩3月10日更新📝【note:もうひとつのブログ】
noteではWixブログで書いた内容を、読みやすくわかりやすいテキストにしています。
写真を交え、わたしのアートについて発信しています。こちらも是非楽しんくださいね。





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