「壁」への応答ー2026年5月前半の読書から。
- 5月15日
- 読了時間: 5分
更新日:5月17日
📍いつもブログを読んでくださりありがとうございます。
2026年5月前半の読書から、印象に残った三冊をご紹介します。
一冊は明治の女性画家の信仰と葛藤
一冊は現実と幻の境界を問う長編小説
そして一冊はガザから届いた生の声です。
時代も舞台もまったく異なる三冊ですが、読み終えてみると「壁」と「声」という言葉が暗やみから白く光ります。
💬これまでのご紹介した本はこちらからどうぞ。
📚明治の女性画家が信仰とイコンの間で見つけた「光」
『白光』
著者:朝井まかて
出版年:2021年(2024年文庫化)
出版社:文藝春秋
時代・画家・信仰、三つの軸で読む傑作歴史小説。
実在した人物、山下りん(イリナ)をモデルにした小説です。
りんは維新の10年前、茨城・笠間に生まれました。
どうしても絵描きになりたいと上京し、師を次々に変えながら、工部美術学校の女子生徒募集第一期生として入学します。優秀な成績と実力を備えた彼女は、友人のつながりから駿河台のロシア正教会に出入りするようになり、やがて女性として初めてロシアでイコン画家の修行に留学を果たします。
5年の予定が2年での帰国となったのは、心身の疲弊が体を蝕んだためでした。
帰国後は駿河台の教会で数多くの宗教画を手がけます。
西洋画の写実への傾倒から、ロシア・イコンの暗く稚拙に見える模写を経て、やがて信仰とイコンの間に脈々と受け継がれた精神性に気づくのです。
そのときりんはすでに若くはありませんでしたが、その気づきは教会で若い弟子を指導するときに深く活かされます。
ロシアと日本の友好関係に亀裂が入るような歴史的背景を描きながら、差別や屈辱を跳ね返すように自分の信念を優先するりんの姿は、3月の読書で取り上げたヨーやシャルロッテと重なります。
葛飾応為をモデルにした『眩(くらら)』、森鷗外の次男をモデルにした『類』と並ぶ、朝井まかての女性・画家シリーズの一作です。
📚現実と幻を隔てる「壁」の前で立ちすくむ
『街とその不確かな壁』
著者:村上春樹
出版年:2023年(2025年文庫化)
出版社:新潮社
40年の時を経て完成した、村上春樹の長編。
村上春樹の新刊『夏帆─The Tale of KAHO─』が今年7月に発売されると知り、久しぶりに長編を読みたくなりました。600ページを超えるハードカバーを、少しずつめくっていく時間でした。
第一部は1980年に文芸誌へ掲載され、その後およそ40年を経て第二部・第三部が書かれました。第二部の執筆はコロナ禍のステイホームの時期と重なります。
あとがきを読むと、人・物・事から隔離された生活の中でコツコツと書き続けた背景が伝わってきます。「不確かな壁」という言葉から受けるイメージは、あちら側とこちら側を隔てる境界と断絶です。
村上春樹が作中に忍ばせる小物の選択——昼食は「サンドイッチ」であること、十六歳の少女の下着を白と想像する場面など、う~んと思いながらも、熟成した豊穣な香りが漂うような(あの暖炉の薪から林檎の香りがするように)、慎重で落ち着いた文章に引き込まれていきました。第一部から第二部にかけての語り口の変化は年月を重ねた人の文章という貫禄も感じました。
あちら側にいようとも、こちら側にいようとも、そこが現実であり幻であるという境界をすり抜けるような魂の存在——それを読者は壁の前で静かに知ることになります。
そしてコロナが一応収束した今、「不確かな壁」という言葉を読んで思わずにいられないのは、パレスチナ側に一方的に建てられたイスラエルとのグリーンラインに接する壁を想像してしまうのです。
📚ガザに生きる人々が書いた言葉
『ガザー炎の中から届く声』
著者:リフアト・アルアライール他 翻訳:斎藤ラミスまや 解説:早尾貴紀
出版年:2024年
出版社:青土社
2023年10月7日以降に出版されたこの本には、パレスチナに暮らす人々の生の声と現実が書かれています。日本人や他国のジャーナリストが書いたガザの本はこれまでも読んできましたが、この本はわたしと同じ世代やそれより若い、優秀なパレスチナの方々が自ら書いたものです。
実際に経験したこと、学んだ専門分野からガザの復興や現状に何ができるかを、それぞれの言葉で綴っています。
毎晩ちびちびと読み進め、本を閉じ眠る頃、目の前にその惨劇が広がり、爆撃の音が聞こえてくるようでした。暗くなり目を閉じると、明日は目覚めないかもしれないという恐怖を共にしました。
寄稿者たちの目と言葉を通して、わたしは何ができるのか。
何をせずにはいられないのか。この本はその問いを迫ってきます。ガザの読書は終わらせてはならない、と改めて誓いました。
三冊を並べて
信仰のために海を渡ったりん
壁の向こうを夢見る村上春樹の語り手
そして壁の内側から声を上げたガザの人々。
三冊に共通するのは「壁」です。
りんが向き合ったのは時代と性別という見えない壁。
村上春樹が描いたのは現実と幻を隔てる形而上の壁。
そしてガザの寄稿者たちが直面しているのは、文字通り命を隔てる壁です。
壁はいつも、こちら側とあちら側を分けます。
しかし三冊はそれぞれの方法で、その壁をすり抜けようとする人間の声を伝えています。
りんの絵筆、村上春樹の文章、ガザの人々の言葉。
表現することが、壁に対する唯一の応答なのかもしれません。
来月の三冊もどうぞご期待ください。
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